目次へ戻る 牧岡さん大研究
柏崎の牧岡さん

 

柏崎市立図書館には、牧岡さんについて書かれた資料が数冊あります。そこの関矢隆さんにお願いして、牧岡姓に関する頁をコピーして送って頂きました。特に参考になる資料は、次の3つです。

  • 西中通のあゆみ 増補改訂版----平成7年 西中通公民館発行

  • 甲子楼文庫=柏崎文庫----大正11年 関甲次郎著

  • 逝水記(10)--------関甲子楼(関甲次郎)著

さらに、「西中通のあゆみ」に関しては、牧岡孝さんにお願いして、原本をお送りいただきました。以下これら資料により、柏崎の牧岡さんにまつわる色々な話題をお届けします。

また、ご協力いただきました、関谷隆さん、牧岡孝さんに、厚く御礼申し上げます。

 

牧岡家は牧家だった

柏崎の牧岡さんには、「もとは牧姓だった」とか、「牧姓が本家」、反対に「牧岡姓が本家」というような話があります。これについては、逝水記に次のような記述があります。

「西中通村大新田の牧氏は旧家なり、中興の祖を清九郎という。寛永17年9月12日死す。----生前中上原村の庄屋を勤め下大新田の地を開発せり。四代目源五左エ門より大肝煎を勤む。八代目清九郎の時、安永年中上原村の牧氏と本家分家争いを起こす。----九代目の時、牧の下に岡の字を付して牧岡と改む。」

これによれば、元は牧姓で、江戸時代後半に「岡」を付けて牧岡姓になったようです。「岡」については、なぜ「岡」なのかは書かれていませんが、近くに下原室岡という地名があったり、菩提寺が月岡山普光寺だったりしますので、その「岡」ということも考えられます。

また、甲子楼(きねろう)文庫には、やはり下大新田の牧氏のところで

「五代目伴左エ門享保8年(1723)、牧の一字にては軽がるしとして牧岡とす」

と書かれていました。逝水記と甲子楼文庫の作者は同じですが、岡の字をつけた時代の記述が異なります。若干の混乱があったのか、新しい事実がわかったのかわかりませんが、いずれにしても、「牧岡家」は「牧家」でした。

 

牧家は平家の落人だった

先に牧岡家は、もとは牧姓だったということを書きましたが、柏崎の牧家には平家の落人だったという記録が残っています。

「西中通のあゆみ」によりますと、山本(上原の牧岡家の近く)の牧家と本間家は平家の士族で、源平合戦の2〜30年後に、当地にやってきたそうです。

山本の牧精一さん(故人)の家にある古文書には、

「元暦元年(1184)一の谷の合戦で四国の阿波を領する牧野玄藩の輔平清澄という人が討ち死にした。二人の息子とその母は、平家の一族であることを隠すため上野と姓を変え、越中立山の麓に逃れ住み、その地で3年ばかり不自由な生活をしたのち、文治3年(1187)、秋山へ移り住み、そこでさらに10年暮らし、建久7年(1196)、母が亡くなったのを機に、山本に移り住んだ。その時、兄昌澄は23歳、弟氏澄は21歳。気比大明神、天満宮を安置し、姓は牧野の姓を一字に略し、牧とし、兄は鯖之介、弟は玄九郎と改め猟業に従事した。それから5年後の正治2年(1200)に川向こうの巻の原へ分宅し、田畑を切り開いた。」

と、書かれています。(西中通のあゆみを現代語に要約)の谷の合戦の年代はあっています。また、平家の落人については、国文社発行の総合日本史第4巻を調べてみますと、その中に、平家の伝説を持つ土地として、「熊本県の五箇荘、宮崎県の椎葉村、徳島県の祖谷山、新潟県の岩船、静岡県の京丸、福井県の五箇村、信越国境の秋山、福島県の只見川渓谷、薩南の喜界が島」などがあげられています。

この中の秋山が地名として一致し、また、岩船もそうだとすれば、柏崎(山本)にも落人が来てもおかしくありません。また、文中の薩南の喜界が島にも牧岡姓がありますし、四国で古くから牧岡姓あったのは、徳島県だけ。牧岡姓と平家とは、何か関係があるかもしれません。

また、この古文書中の「気比大明神、天満宮」は、今でも山本の産土神さまとして奉られています。ただし、この古文書は江戸末期に書かれたものです。牧家に代々伝わったことを記したのか、平家の子孫であることから推測して書かれたものか、今では判断ができません。

 

江戸時代の牧(牧岡)家・その1

牧岡家は、元は牧姓でした。そして、柏崎の牧家には平家の落人だったという記録が残っています。ただし、その記録は江戸時代に書かれたもので、多少疑問が残ります。平家の落人の「牧野」が、身分を隠すために「牧」と名を変えたという話ですが、元は「牧野」ではなく「牧岡」だとしたらどうでしょうか?全国になぜ「牧岡」姓が点在するのか説明がつきます。全国の牧岡さん、平家の落人の子孫だったというような言い伝えはありませんか?あるいは、身近に平家の落人の話はありませんか?

そこで、牧岡家との関係は明らかになっていませんが、多分元は一緒だったと思われる柏崎の牧家について書いてみます。江戸時代には、上原(かみはら)や下原のことを牧の原と言っていました。姓は地名に由来していることが多いと言われていますので、牧の原に牧姓があっても不思議ではありません。牧家があったので牧の原なのか、牧の原に住んでいたので牧姓なのかわかりませんが、とにかく江戸時代に牧姓を名乗る家がありました。

牧惣左衛門

下原・室岡の牧惣左衛門(元鍛冶屋)さんの家がその一つです。この家は、

惣左衛門:宝暦3年(1753年)没を初代とし

2代:五郎衛門 寛政8年(1796年)没

3代:惣右エ門 文化3年(1806年)没

4代:惣右エ門 弘化2年(1845年)没 

5代:名称不詳 嘉永6年(1853年)没

6代:弥平

7代:宗一郎

8代:浩一 

と、続きました。また、下原の松月庵は始めは惣左衛門さんの位牌堂だったそうです。

牧惣治衛門

下原・室岡の質屋。万延、文久、元治、慶応、明治の時代に二代にわたり質屋を営みながら、宅地内に剣道場を開いていたそうです。武士ではないのに何故剣道場を開くことができたのか、興味深い話です。

この両家は、明治以降も牧姓を名乗っています。

牧岡家は元は牧姓でした。しかし、上原の牧岡家も、下大新田の牧岡家も、牧姓から牧岡姓に改姓しました。元は同じとはいえ、両家は別れて何代もたってから改姓したのです。しかも同じ「牧岡」にです。はっきりした理由もわかりません。「牧の一字だけでは軽々しいので岡をつけた」と甲子楼文庫には書かれています。ご褒美に「岡」の字をもらったと言う説もあります。しかし、何のご褒美だかは、はっきりしません。

でも、元々「牧岡」だったと考えてみたらどうでしょうか?平家の落人の「牧岡」が、その身分を隠すために「牧」姓を名乗っていたとしたら、すべて上手く説明がつきます。そして、たとえ「牧岡」を名乗っても、「平家の落人」は自慢になるようなことではないので曖昧にしていたと考えたらどうでしょうか?全国の牧岡さんとの関係も説明がつきます。

あくまでも、これは想像です。何の証拠もありません。しかし、そんなふうに考えると夢がありますね。皆さんもいろいろ想像してみてください。

 

 

江戸時代の牧(牧岡)家・その2

上原の牧岡家

春日騒動

この牧岡家は春日騒動の記録の中に必ず出てきます。春日騒動とは、文政6年(1823年)に春日領に起こった百姓一揆です。一揆に襲われたのが、上原の牧岡豊左エ門さんの家です。

この時、豊左エ門さんは御勘定方兼大庄屋、長男の勘左エ門さんは大庄屋、孫の彦一郎さんは庄屋、次男の周蔵さんは丹後知行所御用使を勤めるなど、この牧岡家の歴史の中で一番栄えていた時代ではなかったかと思われます。苗字を名乗ることを許され、庄屋でありながら、勘定方や御用使という役に就いていました。

一揆は大した事は無かったのですが、首謀者は捕らえられました。しかし、一揆が拡大するのを恐れた陣屋では、首謀者を間もなく釈放しました。一揆は、その後も続き、さらに家老、代官、大庄屋(牧岡家)などの悪政をしたためた大願書(訴状)が領主(安藤出雲守)に提出されました。これにより一時、豊左エ門さんは捕らえられ、出雲崎で宿預けになりましたが、とくにお咎めはなかったようです。

大願書を受け取った領主は、自分では手におえず、寺社奉行がこの事件を裁く事になりました。一揆の首謀者達は捕らえられ、江戸に送られました。

この時代には、このような裁きで農民を罰すると、さらに一揆が拡大する恐れがあるので、長き調べに耐え兼ねて、受牢者が死ぬのを待つと言う事がよくあったそうです。

取り調べは長きに渡り、多数の牢死者が出ました。そこで庄屋の高野和七郎さんが中心となって大願書取り下げを働きかけ、豊左エ門さんも一揆側と和解しそれに協力しました。(高野さんは、この功により代官に任命されています)その結果、取下げが認められ、取り調べを受けていた人たちは1年以上を経て無罪放免となり、そして、訴状により悪事が明らかになった家老は罷免されました。さらに代官や大庄屋(牧岡家)などの関係者も、その責任をとらされたのでしょうか、すべて罷免され、春日騒動は幕を降ろしました。

牧岡鉄弥さん

その後の上原の牧岡家については、あまり情報はありませんが、幕末のころ、長岡藩武術指南役山田家から養子(鉄弥さん)を迎え、牧岡家から、安藤家の家臣の家に養子に出すと言うようなことがあったようです。春日騒動があって要職を罷免されても、安藤家との関係はあまり悪くなっていなかったようです。

そして明治の時代になって、武士の時代が終わったからでしょうか、鉄弥さんは、牧岡家へ戻り、彦一郎さんの弟として牧岡姓を継いでいます。その後鉄弥さんはクリスチャンになり、聖公会(ローマカトリックから分離した教会)の司祭として活躍しました。

普光寺のお墓

柏崎の普光寺には、この牧岡家のお墓があります。このお寺は、江戸時代に焼失した際、上原の牧岡家などが田畑を寄進し、そこから取れるお米などを財源に再建されたという歴史があるそうです。

上原の牧岡家の墓(普光寺)

お墓には「天保5年(1838年)牧岡五三建立」と書かれています。この五三さんが豊左エ門さんではないかと思われるのですが、はっきりした根拠はありません。ぜひ柏崎の牧岡さんにお調べ頂きたいと思います。

このお墓は、歴史を感じさせる立派なものですが、一時荒れ放題になっていました。今では縁のある千葉にお住まいの牧岡さんがお守りしていますが、その家は鉄弥さんの血筋でクリスチャンです。檀家にはなれません。牧岡姓を歴史に残した由緒あるお墓です。いつまでも、普光寺にあって欲しいと思っています。もし皆さんも、機会がありましたら、普光寺を訪ねて、お参りしてくださいますようお願いします。

普光寺

上原の牧岡家のあったところ

この上原の牧岡家があったところは、現在近畿大学教授の駒野徹(元京都大学教授)先生の実家になっているそうです。

 

 

 

江戸時代の牧(牧岡)家・その3

下大新田の牧岡家

柏崎にあった2軒の大庄屋の牧岡家で、今でも本家がはっきりしているのは、この下大新田の牧岡家だけです。

初代について

「西中通のあゆみ」には、

「牧岡氏が上原の庄屋より来り、下大新田の草分けで、当家の勘助が寛文7年(1667)一村開拓に付、29石下さる。大肝煎」

と書かれています。


また、逝水記には

「上原村の庄屋を勤めた清九郎が下大新田の地を開発した」

と書かれています。


そして、甲子楼文庫には

「清九郎一村開拓者、20石2斗下さる」

と書かれています。

それぞれ若干の違いがありますが、下大新田の牧家(牧岡家)は上原の牧家(牧岡家)から別れたことは確かなようです。ただし、誰を初代とするかで違いが出てきます。上原村の庄屋を勤め下大新田を開発した清九郎さんを初代とするのか、その子、勘助さんを初代とするのかで、その後の「代」が違ってきます。

また、甲子楼文庫では勘助さんの次の代は失名と記されています。それを数えるかどうかでも若干「代」が変わってきます。そんな関係でしょうか、資料によって「代」の記述が若干異なっています。

もう一つ曖昧なところは、清九郎さんは20石2斗(甲子楼文庫)勘助さんは29石(西中通のあゆみ)下されたと書かれていますが、これは、どちらか一つが史実なのか、合わせて49石2斗下されたのか、はっきりしません。

しかし、いずれにしても、上原の牧家(牧岡)から下大新田の牧家(牧岡家)が分家したのは確かなことのようです。恐らく、清九郎さんと、その子供の勘助さんが力を合わせて下大新田を開発したのはないでしょうか。

牧岡姓について

では、牧家がいつごろ、何で牧岡家になったのでしょうか?

甲子楼文庫には、

「5代伴左エ門、享保8年(1723)牧の一字にては軽がるしとて牧岡とす」

と書かれています。

逝水記によれば

「九代目の時に、牧の下に岡を付して牧岡と改む」

と、それぞれ牧岡になった理由や時代などが記されています。

また、この牧岡家には

「伴左エ門の代に何かのご褒美で「岡」を頂き「牧岡」になった」

と伝えられています。

ただ不思議なのは、上原の牧家も同じように「牧岡」に改姓していることです。それが後に本家分家争いの原因の一つになったと思われるのですが、やはり、柏崎の下大新田以外の牧岡さんからもこの「ご褒美」説を聞いたことがあります。 

「代」について

先に述べましたが、下大新田の牧岡家については、いくつかの資料に、「代」が記されていますが、整合性がありません。そこで、この牧岡家に残る資料や言い伝えを参考に、統一した見解を出してみようと思います。

 まず、それぞれの資料にかかれている内容を整理しました。


逝 水 記

清九郎(中興の祖)
寛永17912日死す。上原村庄屋を勤め下大新田の地を開発せり。
源五左衛門(4代目)
この代より大肝煎を勤む
清九郎(?)
上原村の牧氏と本家争い
?(9代目)
牧の下に岡の字を付して牧岡と改む
門之介信敏(14代目)
明治27年刈羽郡役所書記、39年上小国村派遣代理村長役


甲子楼文庫

清九郎
上原村庄屋、下大新田開発草分、一村開拓20石2斗下さる
勘 助
失 名
源五左エ門
元禄16年大肝煎
八郎左エ門
大肝煎
祐右エ門
伴左エ門(5代)
享保8年、牧の一字にては軽がるしとて牧岡とす。友左エ門
勘 助
清九郎
庄屋役寛政9年〜文化11年、苗字帯刀御免
勘 助
文化2年庄屋、安政3年も苗字御免、慶和元年帯刀御免
宗十郎
勘助義澄
明治16年没
門之助信敏(14代)
明治27年郡役所書記、39年上小国代理村長

 


西中通のあゆみ

勘助(初代)
寛文年間(1667年)一村開拓に付、29石下さる。大肝煎。
源五左エ門(2代)
八郎エ門(3代)
ここでは八郎左エ門ではなく八郎エ門です。
祐エ門(4代)
伴左エ門(5代)
友左エ門(6代)
勘 助(7代)

清九郎(8代)
上原牧岡家と本家分家争い
門之助(14代)
明治27年刈羽郡役所書記、その後上小国村代理村長、更に西中通村5代村長
文 雄(15代)


これらを参考に、牧岡家の資料や言い伝えをもとに、「代」を整理してみた結果は、次のようになりました。

初代  清九郎
2代  勘 助
3代  失 明
4代  源五左エ門
5代  八郎左エ門
  自宅近くに庵堂を開基
6代  祐エ門
7代  伴左エ門 
  姓を牧岡とする
8代  友左エ門
9代  勘 助
10代 清九郎
11代 勘 助

12代 惣十郎
13代 勘 助
14代 門之助
15代 文 雄
16代 昭 良

これで初めて、「西中通りの歩み」に「門之助さんが14代」、「文雄さんが15代」と書かれていることの説明がつきます。

本家分家争い

安永、天明のころ(17721788頃)上原の牧岡家と下大新田の牧岡家との間で本家分家争いがありました。このころの裁判は両成敗になることが多かったのですが、この件は、家は上原が本家、人は下大新田が本家、すなわち上原から隠居して下大新田の牧岡家ができたと言う判決が下されたと伝えられています。

このように西中通のあゆみや甲子楼文庫では、牧岡家になってから本家分家争いをしたことになっていますが、逝水記では牧姓の時に行われたことになっています。牧岡家では、牧岡家になってからとの見解です。

下大新田の牧岡家と上原の牧岡家

江戸時代は封建社会でしたから、人が簡単に住居を移すようなことはできなかったと思われます。特に領民が勝手に領地を離れたら、領主にとっては困ることになりますから、それは許されないことだったと推測されます。

そこで、上原村牧岡家と下大新田村の牧岡家が分かれた時代を考えてみました。両家が分かれたのは、1600年代でした。

上原村と下大新田村は天正(元年が1573年)の時代より同じ領主でしたが、元和2年(1616)から3年間は、上原村は長峰藩、下大新田村は高田藩の統治下になりました。が、元和5年(1619)から貞享3年(1686)までは、高田藩から天領へと領主は変わりましたが、再び同じ領主の統治下に置かれました。

しかし、その後明治になって藩が廃止されるまで、上原村は旗本安藤領、下大新田村は高田藩と別々の領主の統治が続きました。

両家が分かれた時代は同じ領主の時代、本家分家争いをしたのは別々の領主の時代ということになります。

下大新田の牧岡家は上原の牧岡家と同じ普光寺の檀家です。そこで、この領主の変更が問題になったのではないかと思われます。4代目の源五左エ門さんの頃、お寺のあるところが別の領主に変わってしまったわけです。5代目八郎左エ門さんが下大新田に庵堂を開基したのは、そんな背景があったからではないでしょうか。ここには現在庵堂はありませんが、墓所が残っています。

普光寺の牧岡さんのお墓

柏崎市の普光寺には、上原村の大

庄屋の牧岡家だけでなく、いくつ

かの牧岡家のお墓があります。

江戸時代には、上原村大庄屋

の牧岡家は、下原村の田村家

とともに普光寺の檀信徒総代

を勤めました。

普光寺には、田村家のお墓も

残っています。

 

明治以降の牧岡(牧)家

牧岡門之助さん

之助さんは、下大新田の牧岡家の14代目です。
明治22年に改進党同好会刈羽郡支部が組織された時の名簿に門之助さんの名前があります。

明治27年には刈羽郡役所書記を勤め、その後上小国村で代理村長を勤め、さらに大正6年1月、西中通村5代村長に就任しましたが、何故か1か月で退任しています。
石油王内藤久寛氏とも親交があり、交換文書や村行政に精進された書状が残っているそうです。
信越線工事に際しては、一区間請け負いましたが、完成引渡しの直前に台風の被害にあって、散財されたそうです。

明治7年に創立された日吉小学校は、当初門之助さんの敷地の一部を借りて開校しました。その後明治20年、鎮守明神社の隣接地に新校舎ができるまで10余年間、この地に日吉小学校がありました。

明治の牧さん

牧和三郎さん

明治7年下原村の牧和三郎さんが橋場校の世話係りになりました。

牧安之丞さん

明治22年の地価持姓名録に山本村の安之丞さんの名前がありました。

牧弥平さん

明治22年の地価持姓名録に下原村の弥平さんの名前がありました。

牧弥市さん

槙原村(悪田、春日、橋場、下原、上原、山本の6か村が合併)明治31年の衆議院議員選挙人、地価持芳名録に弥市さんの名前がありました。

牧源蔵さん

明治37年、日露戦争に従軍した源蔵さんが戦死しました。旗艦三笠艦の乗組員水兵で、清国山東省沖で戦華と散ました。下原村の質屋、惣治衛門さんの子孫にあたります。

それ以外に、年代は不明ですが、橋場の大佐任官の牧卯兵衛さんがいました。

大正の牧さん

牧宗一郎さん

大正3年、柏崎農業学校の品評会で宗一郎さんの白菜が二等に選ばれました。また、昭和13年、西中通村村議会議員の中に、宗一郎さんの名前がありました。

 

昭和の牧岡さん

牧岡信義さん

昭和20年11月に、先の戦争で戦死された信義さん他の村葬が槙原校で行われました。

牧岡スギさん

昭和43年、春日のスギさんが市政功労者(保健衛生)として表彰されました。

 

市内の牧さん牧岡さん

話帳によれば、柏崎市には牧姓が31軒、牧岡姓が17軒あります。それ以外に牧口姓51件、巻口姓26件、牧野姓51軒、巻渕姓が11軒あります。

牧姓、牧岡姓は、ほぼ鉄道沿いに、牧口姓は松波、荒浜に、巻口姓は藤橋に、巻渕姓は上田尻に多く分布しています。ただし牧野姓にはあまり特徴は見られませんでした。

まとめ

岡姓は「牧」姓から出たことは、まちがいないようです。また、牧岡家と縁のある普光寺にも牧姓の檀家さんがいらっしゃるようです。でもなぜ「牧岡」なのでしょうか?また、全国に点在する牧岡さんとの関係は、どうなのでしょうか?まだまだ、わからないことだらけです。

でも、元は「牧岡」姓で何かの都合で、それを隠して「牧」姓を名乗っていたと考えれば、全国の牧岡さんとの関係も出てきます。いずれにしても、今の段階では、何もわかりません。何か情報がありましたら、ご連絡いただければ幸いです。

 

   
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