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五左衛門さんを訪ねて

 

岐阜県不破郡垂井町岩手

岡五左衛門さんは、竹中半兵衛の竹中家の家臣です。五左衛門さん
を訪ねるなら、この竹中氏を訪ねてみてください。

岐阜県不破郡垂井町岩手には、竹中氏とその家臣の菩提寺でもある禅
幢寺をはじめ、竹中氏の陣屋跡、江戸時代の藩士の教育の場であった
菁莪堂を記念して建てられた菁莪記念館などがあります。

この辺りを散策すると、何か五左衛門さんに関する発見があるかもしれま
せん。
機会がありましたら、ぜひこの垂井町岩手を訪れてみてください。

菁 莪 記 念 館

ず、この記念館に寄ってみてください。ただし、常時公開されていませ
んので、予め、観光協会(TEL0584-22-1151)などに確認してから出かけ
たほうが無難です。鍵は公民館で管理しているようなのですが、公民館が
留守のことがあるようです。

 
 

岩 手 藩 士 分 布 の 図

菁莪記念館に入って正面の右上に「岩手藩士分布の図」があります。そ
れは、江戸時代のころのことを描いたものだと思われますが、どの資料を
もとに書かれたのかはわかりません。しかしそこには確かに「牧岡五左エ
門」という名前が記されています。

(写真提供:タルイピアセンター原田義久様)

 

岩 手 藩 士 の 名 前

その分布図には、「五左エ門」さん以外にも、岩手藩士と思われる人の名
前が書かれています。

寺島修太夫、棚橋新蔵、石河武左エ門、

牧岡五左エ門、長原武、平手左七郎、竹之内結城、

伊藤彦太郎、喜多村庄太郎、溝口庄九郎

今でも、この近所には、寺島さん、平手さん、北村さん、溝口さん、伊藤さん
などがお住まいになっています。それらのお宅は、岩手藩士の子孫の家な
のでしょうか?

なお、興味のある方は「竹中家の家臣」をご覧ください。

(写真提供:タルイピアセンター原田義久様)

 

この分布図によれば、最初の地図のあたりが、「五左エ門」さんの家が
あったところになります。陣屋門を通り過ぎたところです。さらに、東海道本
線を渡って、竹中氏の菩提寺、禅
幢寺にもぜひ足をのばしてみてはいかが
でしょうか?

このページはタルイピアセンター原田義久様に多大なご協力をいただき作
らせていただきました。原田義久様には、この場をお借りして、厚く御礼申
し上げます。

また、垂井町のホームページもあわせてご覧ください。

牧 岡 家 に つ い て

「垂井町史・史料編」に「明治4年6月岩手家中帰農籍」という項目があります。明治4年といいますと、五左エ門さんが亡くなった翌年です。そこに書かれている才二郎さんは、牧岡家の跡取りだと思われます。

それによりますと、牧岡才次郎さんは、明治4年に33才で、家族は次のとおりです。

母・・・・・こと(54才:江州坂田郡井ノ口村藤十郎娘)

妻・・・・・りせ(26才:大垣藩岡田善之進娘)

女子・・・けい(7才)

女子・・・きえ(5才)

そして、「宗旨東本願寺長正寺旦那」と書かれています。

別の資料により「こと」さんは、五左エ門さんの奥さんであることがわかっています。この「こと」さんは、明治11年6月30日に亡くなっています。

関ケ原と岩手の牧岡家

現在岐阜の牧岡さんは、関ケ原の五左衛門さんのお墓と縁のある牧岡家と、岩手の牧岡家の2軒に分かれています。五左衛門さんまでは、一緒だったような気がしますが、その後、何らかの理由で2軒に分かれたと考えられます。それがどうやら、この才次郎さんがキーマンらしいのです。
才次郎さんは幸平と改名したのではないかと思われます。なぜなら、幸平さんは、五左衛門さんの長男で、その奥さんは岡田善之進さんの次女「りせ」という記録があるからです。そして娘の「きみ」さんに関ヶ原から養子を取っています。

これから先は私の推測なのですが、この「きみ」さんは、上記の「きえ」さんではないでしょうか?筆で書くと同じような字になりますよね。そして、養子をとって関ケ原へ住まいを移したので、関ケ原に五左衛門さんのお墓があったのではないでしょうか?
そして、長女の「けい」さんか、その後生まれた男子が岩手の家を継いで、菩提寺長正寺の先祖代々のお墓を守ってきたのが、岩手の牧岡家だとすれば、話はつじつまがあいます。人は関ヶ原の牧岡家が本家を継ぎ、家は岩手の牧岡家が本家を継いだことになります。ただし、これはあくまでも私の推測です。あとは、岐阜の牧岡さんに真実をお調べいただきたいと思っています。

 

 

  

岐阜県垂井町岩手の牧岡さん

牧岡五左衛門さんに縁のある牧岡家は、現在2つありますが、元は一つだったと思われます。一つは関が原の牧岡さん、そしてもう一つが垂井町岩手の牧岡さんです。
  岩手の牧岡さんからお墓の写真を送っていただきました。この家は、「やま五」という屋号で呼ばれていて、お墓は「垂井町史」の中にある「岩手元家中帰農籍」(明治4年に竹中家の家臣が武士をやめて農家になったことを書てある)の牧岡家の菩提寺とされている長正寺にあります。

大きな墓石の表には「南无(無のこと)阿弥陀佛」と彫られていて、裏には「天保五年甲午年八月朔日(旧暦の1日のこと)」「牧岡姓」と彫られています。
  小さな墓石の裏には「文政十二年牛年 渡邊氏」「天保五年甲午年八月朔日改」「牧岡姓」と書かれています。渡邊家と縁がある家なのか、渡邊家が姓を変えたのかわかりませんが、いずれにしても渡邊家と関係があったこと、そして渡邊家も牧岡家もその当時から苗字を公に名乗ることが許されていたことになるでしょう。

また、墓誌は、新しく作られたものですが、その中には「天保14年2月13日五左衛門」と、牧岡五左衛門さんの名前も書かれています。
  墓石には、まだ読みきれない文字もあるようですから、岐阜の牧岡さんの子孫の皆さん、一度、ご先祖のお墓参りをかねて、その目で確かめてみては如何でしょうか?

*この家は代々五左衛門を名乗っていたと伝えられています。最後の五左衛門さんは、関が原の牧岡さんによれば明治3年2月12日に亡くなられています。

 


   
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