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| は じ め に | ||
| 牧岡という姓は、有りそうで、なかなか無い名字です。その由来を調べることは、昔なら大変な仕事だったと思われますが、昨今ではインターネットが普及し、ある程度簡単になりました。
また、今ならまだ、明治や江戸時代のことをご存知のお年寄りがおいでになると思われます。このタイミングを逸すると、牧岡姓の由来を調べることが難しくなってしまいます。全国の「牧岡」さん。この美しい名字と共に、その由来を私達の子孫残しませんか? - - - - - - - - - - - - - - - - -(牧岡 輝夫)
*このホームページは、すべての牧岡さん共有の資料です。自由にお使いください。 *このごろ新しい情報が少なく、毎月更新できなくなってしまいました。 薬 種 商 の 牧 岡 家 平成15年3月に奈良県大和郡山市にある県立民俗学博物館で江戸時代後期から明治初期の雛人形が展示されました。その中に、江戸時代の大名が所有していた雛人形を購入したと伝えられる牧岡家の雛人形がありました。 (2003.07.06) 広 島 の 牧 岡 さ ん 広島県出身の牧岡さんは3グループあります。新潟、岐阜に続いて、3番目に多い20軒以上の牧岡さんが、確認できています。 ただ、広島県の牧岡さんが、槙坪家や槙岡家と、関係があったかどうか、現時点では、何もわかっていません。 (2003.02.09) まきおか家の四姉妹 今回も細雪の話題です。 (2003.01.08) Do you know Makioka Sisters?
細雪の英文タイトルは「Makioka Sisters」ですが、日本の人は、そのことをほとんど知りません。逆に、日本文学を学んだ外国人は、「Makioka Sisters」という日本の小説は誰もが知っているはずだと思っているに違いありません。 ところが、ほとんどの日本人は「知らない」と答えるはずです。しかも、Makiokaという苗字も見当たらない。
「世界で読まれている日本文学を、日本人は何故知らないのだろう?日本人は文学には興味が薄いかな?」などと誤解されないよう、頑張りましょう。 (2002.12.08) さがしています 現在、ほとんどの牧岡さんのルーツが明らかになっていますが、新潟県柏崎市をルーツにする下大新田の牧岡家から分かれた牧岡さんの中で、わかっていないグループがあります。 (2002.11.03) 二人?の五左衛門さん岐阜県をルーツにする牧岡家は二つあります。一つは垂井町岩手をルーツにする牧岡家、もう一つは関ケ原をルーツにする牧岡家です。 原本が何処にあるかは不明ですが、慶応2年の「御家中御扶持米諸請拂帳」の中に「牧岡五左衛門」という名前が書かれています。牧岡五左衛門さんが竹中家の家臣であったことの1つの記録です。(原本から書き写した資料が残っています)この五左衛門さんの家について、ちょっと書いてみます。 (岩手の牧岡家) 牧岡才次郎(33歳、長正寺旦那) この資料を元に、この方々の生まれた年を計算すると、才次郎さんは1839年、ことさんは1818年、りせさんは1846年、けいさんは1865年、きえさんは この家の長正寺の墓誌には、「天保14年2月13日五左衛門」と書かれています。この家には、「代々竹中家に使え五左衛門を名乗っていた(襲名していた)」と言い伝えられていて、屋号も「やま五」といわています。 (関ヶ原の牧岡家) 一番古い戸籍(当然明治以降のものですが)には、牧岡幸平さん(天保10年5月15日生)の父の欄に「亡牧岡五左衛門」という記載があります。 五左衛門−−幸平(才次郎?)−−−−−重義(養子:1867年生) この幸平さんは1839年生まれです。才次郎さんと同じ年です。また、戸籍謄本には、重義さんの養母(幸平さんの妻)は、岡田善之助さんの次女でりせさんと記載されています。ですから、おそらく、幸平さんは岩手の才次郎さんと同一人物だと思われます。では、重義さんは誰と結婚したのでしょうか?戸籍では「きみ」となっています。(重義さんの長女操さんの戸籍に母として書かれています。) そして、岩手の牧岡家は長女のけいさんが養子を取って継いだのではないかというのが私の推理です。岩手の牧岡家の古い戸籍が入手できれば、そのあたりが明確になるのですが、この先の仕事は岩手の牧岡さんにお任せしようと思います。 この関ヶ原の牧岡家に残る記録(位牌)によると、牧岡五左衛門さんは明治3年2月12日にお亡くなりになっています。 この2つの牧岡家、今では行き来はありませんが、このような関係でつながっているというのが私の見解です。ただ、関ヶ原がルーツの牧岡さんには、後を継ぐ男のお子さんがいらっしゃらないので、この先、牧岡姓が受け継がれるか心配です。 (2002.10.06) 牧 岡 家 の 謎 牧岡という姓は、江戸時代にはあったことが確認されています。江戸時代に牧岡姓を名乗っていたことが確認できる、あるいは推測される家は次の家です。 《新潟県柏崎市の牧岡家》 《岐阜県垂井町の牧岡家》 《広島県呉市の牧岡家》 《三重県桑名市の牧岡家》 江戸時代に「牧岡」姓を名乗った複数の家が、元は牧岡姓ではなかったのです。では何故、牧岡姓を名乗ったのでしょうか?また、明治になって、他の牧岡さんが何故、牧岡姓を名乗ったのでしょうか?ある地域に限定されていれば、なんとなく理解できるのですが、広範囲に分散しています。(もちろん、その中には、まだ分かってはいませんが、江戸時代以前から牧岡姓を名乗っていた牧岡さんが含まれている可能性があります。) 上記以外に、神奈川県、奈良県、大阪府、広島県、鳥取県、山口県、徳島県、熊本県、鹿児島県をルーツにする牧岡家があります。 また、偶然といってしまえばそれまでですが、新潟県柏崎市の牧岡家のお墓と、岐阜県垂井町の牧岡家のお墓は、どちらも天保5年に建立されています。 *古いお墓をお持ちの牧岡さん、ぜひ写真をお送りください。 (2002.09.01) 牧 岡 鉄 弥 さ ん新潟県がルーツの牧岡さんに「牧岡鉄弥」さんがいます。哲弥さんは幕末の頃、長岡藩武術指南役山田家から、上原の牧岡家へ養子にきました。牧岡家の娘さんと一緒になったのでしょう。 そのころ、封建社会の身分制度はかなり曖昧になっていました。武士の身分をお金で買うようなことも出来たようです。また、それとは別に、後継ぎのない武士の家では当然養子を取ることも行われていました。 哲弥さん夫婦も、武士の身分を得るため、すなわち「仕事」を得るために、(たぶん)後継ぎのいない安藤家の家臣の家に養子に行きました。その際、持参金のようなものを持っていったと思われます。「牧岡姓」は捨てても、新しい家で、末代まで武士の身分を保証されることになったわけです。 しかし、明治維新になり、そのことが無意味になり、鉄弥さん夫婦は、再び牧岡姓に戻りました。そして鉄弥さんは聖公会のクリスチャンになりました。
今、柏崎市の普光寺にある上原の大庄屋を勤めた牧岡家の墓は、(クリスチャンですが)この鉄弥さんの子孫の牧岡さんがお護りしています。 (2002.07.31) 7月14日の朝の番組(東京では)、「所さんの目がテン!」に牧岡俊樹(元筑波大学教授)さんが出演しました。内容は「さそり」のお話。 牧 野 古 墳(奈良県広陵町) 奈良県広陵町に牧野(ばくや)古墳があります。この古墳は丘陵部にある大型円墳で、被葬者は、舒明天皇の父、押坂彦人大兄皇子が有力とされています。
このホームページは、「大和名所記 和州旧跡幽考」(林宗甫)という江戸時代に書かれた「奈良の神社やお寺、名所旧跡を書いた本」を、加藤フサヱさんという方が入力されたものです。また「俗に莫耶が墓……」とも言われていたそうです。 余談になりますが、この「莫耶」というのは中国の春秋時代、呉の鍛冶屋、干将の妻。干将が刀をつくる際、材料が上手く混ざらなかった。その時、熱く溶けた材料の中へ莫耶が身を投じたらうまく混じり、干将・莫耶、2本の名刀がつくられたという話で、「莫耶」の名は奥の細道や勧進帳などにも出てきます。 さて「牧岡」ですが、読み方はわかりません。「ばくおか」と読むのかもしれませんし、「まきおか」かもしれません。奈良県をルーツにする「牧岡さん」が数軒あります。何か関係あるかも知れません。興味のある方は、ぜひ調べてみてください。
残 念 で す が「牧岡さん大研究」で紹介している「牧岡さん」の情報のうち幾つかが「牧岡=まきおか」ではないらしいことが分かりました。 その1.牧岡真守(後藤碩田)さん 「牧岡真守」さんは、大分公文書館などのホームページで紹介されています。私もお願いして資料を取り寄せてみましたが、そこにのっていた古文書の写真をみた時、何となく「枚岡」と読めるなと感じていました。しかし、子孫の後藤さんからメールもいただいていたので、その時は気にもとめませんでした。しかし、その後、やはり子孫の古嶋さんからメールをいただき、漢字は「枚岡」、読み方は「ひらおか」、由来は大阪の枚岡であるとのことでした。 その2.大菩薩峠の牧岡氏 幕末史に興味があるAYUMIさんからメールをいただきました。中里介山の大菩薩峠に出てくる「牧岡氏」とは、平岡鳩平という人のことで、史料によって「平岡」「枚岡」「牧岡」と書かれているのだそうです。この人は維新後に北畠治房と姓名を改めたそうです。 現在では、「ひらおか」という読み方の苗字で「枚岡」と漢字を書く人はいないと思います。そのへんの先入観で、てっきり「牧岡=まきおか」と誤解してしまいました。おわびして訂正します。 その3.柳川藩士牧岡豬 「曽根崎新地のひろ」さんの大塩の乱資料館のホームページの石崎東国著「大塩平八郎伝」その58の中に、 牧岡 豬 通称進二、柳川藩の儒臣なり というのがあります。そこで柳川へ行って調べてきましたが、牧岡という藩士は記録にない、「牧園」の誤りではないかということでした。「牧」と「枚」と同じように「岡」と「園」も筆で書くと混同されやすいですよね。 (2002.5.31) 春日(文政)騒動を考える1.時代背景 春日(文政)騒動は、文政6年(1823)に春日領(新潟県柏崎市)で起きた一揆で、この時の大庄屋が牧岡豊左エ門さんです。
その結果、武士の社会では袖の下が頻繁に行われるようになり、身分もお金で買えるようになったり、また、領主は領民に重税を課して財政の建て直しを図りましたが、それを悪用して、領主と領民の間に位置する家老や代官や庄屋などが私服を肥やすようなことも起こり、領民の生活はさらに苦しいものになり、それに耐えかねた領民の一揆が各地で起こりました。 ことによれば、豊左エ門さんの「大庄屋」の地位や、「苗字帯刀」などは、袖の下をつかって手に入れたものと考えることができるかもしれません。 2.裁判 この時代の裁判は、領地内のもめごとなら、その領地内で解決するのが原則だったようです。この春日騒動のような場合、果たして江戸で正しい判断ができたでしょうか?事実を確認したくても、江戸と春日領を往復するだけでも何日もかかるわけですから、江戸で裁くこと自体に無理があったと思われます。では、安藤領まで役人が出向けばいいという考えもありますが、当時の考え方は、それぞれの地方の代官所や奉行所で審理されることになっていたわけです。(今の地方裁判所でしょうか?)そこで収拾がつかないということは、そこの役人や村役などがきちんと職務を全うしていないという評価になりました。 また、領地内で処理できた案件でも、裁判といってもきちんとした法律や判例があるわけではありませんから、複雑な案件は両成敗あるいは、双方が納得できるような、今でいえば調停のようなケースが多かったようです。 しかも、このような一揆は政府にとっては、政権をも揺るがすことになるので厳しく対処したようです。しかし一揆の首謀者を処刑するとさらに一揆が広がる恐れがありますので、処刑しないで「獄死」というようなことが多かったようです。 安藤領(柏崎)から江戸まで出向いて訴えることは大変なことだったと思われます。江戸の奉行所にとっても難しい訴えだったでしょう。確認をとりたいことがあっても江戸と安藤領、簡単にはいきません。きちんと裁きが行えないで月日だけが過ぎていき、獄死したり、宿預かりで死亡した人が続出しました。そこで、地元では一揆側の加害者と、被害者である牧岡家などとが和解し、一揆側は訴状を取り下げてこの一件は収束しましたが、牧岡家は、領主側からすれば、本来なら領内で一揆などが起こらないようにするのが役目だったわけですから、その役目が果たせなかったこと、そして「喧嘩両成敗」で、その職を全て罷免されてしまいました。 3.豊左エ門さんの身分 この土地に陣屋ができた時の記録では、用人1人、代官1人、御手代2人、足軽4名の構成で、それと地元の地役人で政務が行われていたようです。春日騒動が起きたときも、陣屋の構成は、ほぼそれに近がったと思われます。 柏崎の牧岡さんの中に「先祖は武士だった」と言い伝えがある家があります。これは、ご先祖が、この「勘定方」(多分年貢を徴収する役人)や「用使」だったことを言うのではないでしょうか? また、この領地には2人の大庄屋と10人の庄屋がいました。しかしこの時には、2人の大庄屋と1人の庄屋が牧岡家から出ていました。特に2人の大庄屋が牧岡家の者だったということは、私たちから見ても異常です。ですから他の庄屋さんなどから、反感を買ったということも事件の背景の一部にはあったのかもしれません。牧岡家の隆盛が破滅の原因になったわけです。 Makioka Sisters谷崎潤一郎の「細雪」は、蒔岡家四姉妹の物語です。しかも「蒔岡」は、谷崎潤一郎と知り合いだった岐阜出身の「牧岡」さんの了解のもとで主人公の姓を「蒔岡」としたそうです。ですからこの小説は、内容は「牧岡」家のことを書いたものではありませんが、「牧岡」さんの故郷(岐阜)のことも描かれていてたりして、(蛍狩のシーンなど)とても「牧岡」姓とは縁のある作品なのです。 しかも、英文のタイトルは「Makioka Sisters」です。本の裏表紙には、 The Makioka Sisters is a classic of international literature. (「マキオカ シスターズ」=「細雪」は、世界的な古典文学のひとつです)と紹介されています。日本では珍しい「まきおか」という姓は、日本文学に興味のある外国人ならほとんどが知っている苗字らしいのです。(ちょっとオーバーですか?) インターネットの通販で、この本を買ってみましたので、表紙だけご紹介します。US$で15ドル、2000円まではしませんでした。英語に興味がある牧岡さん、英文で細雪、読んでみませんか?
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大 菩 薩 峠 皆さんは、中里介山の「大菩薩峠」をご存知でしょうか?私の会社のある羽村市は、中里介山縁の地で、私も「大菩薩峠」は読んだことはありませんが、名前くらいは知っています。 その「大菩薩峠」の中に「牧岡」が出てきます。この小説の主人公は机龍之介と言って、架空の人物だと思われます。でも「牧岡」が出てくるあたりは、かなり実際に起こった事件を元に書かれているようです。 大菩薩峠 竜神の巻 1 ……「中山殿はじめ、松本奎堂、藤本鉄石、吉村寅太郎の領袖は、あれから宿駕籠で鷲家村まで行った。それから伊勢路へ走ると先触れを出しておいて、不意に浪花へ行く策略であったがな」 この文は1863年の天誅組の乱のことが書かれていて、中山卿とは中山忠光(明治天皇の母方の叔父)のことです。松本奎堂、藤本鉄石、吉村寅太郎、安積五郎も実在した人物で、なぜほとんどの登場人物がフルネームで出てくる中で「牧岡氏」と姓だけで出てくるのかが疑問です。おそらく牧岡という人物が実在していたのだけれど、フルネームがわからないので牧岡氏としたんだろうと推測されます。(架空の人物なら、適当にフルネームをつければいいわけですから) でも残念ながら、活字では牧岡氏なのですが、読み方は「ひらおか」、平岡鳩平」という人のことだそうです。という内容のメールが幕末史に興味のあるAYUMIさんから届きました。
牧岡さんのCDが発売されています。一つは喜界島の牧岡奈美さんのCD。奄美地方のシマ唄を歌う美奈さんは、数々のコンテストで優勝しています。とくに平成9年から「鹿児島県民謡王座決定戦」で3年連続優勝、16歳の若さで名人位を与えられました。「うふくんでーた」他が発売中です。 あさばな節 稀々 汝きゃば拝でぃ (まれまれ なきゃばうがでぃ) 拝まん人む 拝でぃ知りゅり (うがまんちゅむ うがでぃ しりゅり) 元気しいもれ また拝も (げんきしいもれ またうがも) 歌の意味 神様の引き合わせによってあなたに会うことができました。 このように、とても素朴な、でも心豊な唄が16曲収録されています。興味のあ る方は、奄美大島観光ガイドのホームページ(島唄CDコレクション通販)を訪ね て見てください。 もう一つは、東京で活動しているニュースクール・バンド、EVER LAST。ギターは牧岡君です。 これからのライブスケジュールなど EVER LASTの情報は http://www.howling-bull.co.jp/imperium/ でご覧ください。 平 家 と 牧 岡 姓 新潟県柏崎市の牧岡さんは、もとは「牧」姓で、その牧家には「平家と関係が有り、徳島県から、新潟県柏崎へ移り住んだ」という江戸時代に書かれた記録が残っています。 その徳島県は、四国で唯一昔から牧岡姓があったと思われるところで、祖谷山周辺には平家の落人伝説が残っています。また、鹿児島県にある喜界が島にも平家の落人伝説がありますが、鹿児島県で、もともと牧岡姓があったのも、ここだけのようです。 全国に点在する「牧岡姓」を考えると、平家あるいはその家臣の一族が、源氏との戦いに敗れ、各地に散りじりになったと考えることもできるのではないでしょうか。そして、長い間、平家の落人であることを隠していましたが、江戸時代になって、平家の時代に使っていた「牧岡」という姓だけを復活させたというのはどうでしょうか?広島県呉市の牧岡さんも、江戸時代に尾崎姓から牧岡姓にかえています。真相はまだはっきりしませんが、こんなふうに考えてみると、歴史に興味がわきませんか? 平氏と源氏 ちょっと本論からそれますが、私達は平氏は源氏によって滅ぼされ、その歴史に幕を下ろしたと思いがちですが、そうではありません。 源平以後、武士の社会は、源氏と平氏の流れを汲む者が、交替で政権を手にしています。(源平交替思想といいます) (学研:歴史群像シリーズ11:徳川家康より引用) シ ー サ イ ド ・ カ フ ェ シーサイド・カフェ(海好き大集合)というホームページに、中華人民共和国の大連海事大学へ留学している牧岡恵さんのキャンパス・レポートが載っています。お時間のある方は、ちょと覗いてみて下さい。
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