目次へ戻る 牧岡さん大研究
は じ め に

 

 牧岡という姓は、有りそうで、なかなか無い名字です。その由来を調べることは、昔なら大変な仕事だったと思われますが、昨今ではインターネットが普及し、ある程度簡単になりました。

 また、今ならまだ、明治や江戸時代のことをご存知のお年寄りがおいでになると思われます。このタイミングを逸すると、牧岡姓の由来を調べることが難しくなってしまいます。全国の「牧岡」さん。この美しい名字と共に、その由来を私達の子孫残しませんか? - - - - - - - - - - - - - - - - -(牧岡 輝夫)

作者ぷろふぃ〜る
昭和25年生(猫?年=虎ではない)
東京都在住
趣味は釣り(東京湾年2回、浜名湖年1回、大分湾年1回)と音楽(アコースティックギターかキ−ボ−ドで
みゅ〜爺ちゃんを目指す。)
現在、ギターを練習中。暗譜で10曲弾けるようになった。


メールお待ちしています。
makioka@ibuki-gp.com


写真:大分湾にて(3kgの鯛と)

*このホームページは、すべての牧岡さん共有の資料です。自由にお使いください。

*このごろ新しい情報が少なく、毎月更新できなくなってしまいました。


 薬 種 商 の 牧 岡 家

 平成15年3月に奈良県大和郡山市にある県立民俗学博物館で江戸時代後期から明治初期の雛人形が展示されました。その中に、江戸時代の大名が所有していた雛人形を購入したと伝えられる牧岡家の雛人形がありました。
 この牧岡家は、御所市寺内町の商家で薬種商を営んでいたそうです。

(2003.07.06)


 

広 島 の 牧 岡 さ ん

 広島県出身の牧岡さんは3グループあります。新潟、岐阜に続いて、3番目に多い20軒以上の牧岡さんが、確認できています。
 また、広島は槙(槇)岡姓のルーツでもあります。ほとんどの槙岡さんは、元をたどれば広島出身だと思われます。(広島県では牧岡家より槙岡家の方が多い)そして、この槙岡さんには、槙坪家から分かれたと言い伝えられている家があります。

 ただ、広島県の牧岡さんが、槙坪家や槙岡家と、関係があったかどうか、現時点では、何もわかっていません。

(2003.02.09)


まきおか家の四姉妹

  今回も細雪の話題です。
 細雪は2度映画化されています。そこに登場する女優さんは、いずれも、美人ぞろいです。
 昭和20年代につくられた1回目の映画作品では、長女(鶴子)に花井蘭子、次女(幸子)に轟夕起子、三女(雪子)に山根寿子、四女(妙子)に高峰秀子という配役。2回目は、多分昭和50年代の作品だと思うんですが、長女は岸恵子、次女佐久間良子、三女吉永小百合、四女古手川祐子と、それぞれ時代を代表する美人女優が美しい衣装とともに、登場するそうです。(実は、私は見たことがありません。)テレビで放映されることもあるようです。機会がありましたら、見てください。

(2003.01.08)


Do you know 

 Makioka Sisters?

 

 細雪の英文タイトルは「Makioka Sisters」ですが、日本の人は、そのことをほとんど知りません。逆に、日本文学を学んだ外国人は、「Makioka Sisters」という日本の小説は誰もが知っているはずだと思っているに違いありません。

ところが、ほとんどの日本人は「知らない」と答えるはずです。しかも、Makiokaという苗字も見当たらない。


 牧岡さん! 細雪の英文タイトルが「Makioka Sisters」だってことを、多くの日本人に教えてあげてください。これは、もう牧岡さんの使命です。私たちがやらなければ誰もやってくれません。

「世界で読まれている日本文学を、日本人は何故知らないのだろう?日本人は文学には興味が薄いかな?」などと誤解されないよう、頑張りましょう。

(2002.12.08)


さがしています

 現在、ほとんどの牧岡さんのルーツが明らかになっていますが、新潟県柏崎市をルーツにする下大新田の牧岡家から分かれた牧岡さんの中で、わかっていないグループがあります。
 下大新田の牧岡家では、明治以後、奥さんが亡くなって、後妻をとったことがありました。現在は、その後妻さんの子孫がその家を継いでいるわけですが、先妻さんにも子供がいたらしいのです。ですから、「本来ならそちらが継承者になるんでしょう」とおっしゃっています。
 今までの調査では、該当する牧岡さんは見つかっていませんが、現在20数軒の牧岡さんが、連絡が取れなかったり、「わからない」ということでルーツが確認できていません。その中に、この牧岡さんがいるかもしれません。心当たりがありましたら、教えてください。

(2002.11.03)


二人?の五左衛門さん

 岐阜県をルーツにする牧岡家は二つあります。一つは垂井町岩手をルーツにする牧岡家、もう一つは関ケ原をルーツにする牧岡家です。

 原本が何処にあるかは不明ですが、慶応2年の「御家中御扶持米諸請拂帳」の中に「牧岡五左衛門」という名前が書かれています。牧岡五左衛門さんが竹中家の家臣であったことの1つの記録です。(原本から書き写した資料が残っています)この五左衛門さんの家について、ちょっと書いてみます。

(岩手の牧岡家)
 現在、竹中家の陣屋があった垂井町岩手をルーツにする牧岡家は27軒あります。お寺は岩手の長正寺で、天保5年に建てられた墓が残っています。明治4年6月に書かれた「岩手家中帰農籍」(垂井町史資料編、原本所蔵者柏正憲さん)にも、「牧岡才次郎」という名前の記載があります。ただし、この資料には「五左衛門」さんの名前はありません。そこに書かれていた情報は次の通りです。

  牧岡才次郎(33歳、長正寺旦那)
  母   こと(54歳、江州坂田郡井ノ口村藤十郎娘)
  妻   りせ(26歳、大垣藩岡田善之進娘)
  女子 けい(7歳)
  女子 きえ(5歳)

 この資料を元に、この方々の生まれた年を計算すると、才次郎さんは1839年、ことさんは1818年、りせさんは1846年、けいさんは1865年、きえさんは
1867年になります。

 この家の長正寺の墓誌には、「天保14年2月13日五左衛門」と書かれています。この家には、「代々竹中家に使え五左衛門を名乗っていた(襲名していた)」と言い伝えられていて、屋号も「やま五」といわています。

(関ヶ原の牧岡家)
 関ケ原をルーツにする牧岡家は2軒です。現在の小津公園になっている関ヶ原広畑にお墓がありました。墓石には「岩手藩士出牧岡氏」と書かれていました。ただし、現在は新幹線の工事で墓地が無くなり、東京都八王子市に移す際、立派過ぎて移設できなかったので、この墓石は今は残っていません。

 一番古い戸籍(当然明治以降のものですが)には、牧岡幸平さん(天保10年5月15日生)の父の欄に「亡牧岡五左衛門」という記載があります。
 そして、幸平さんの養子、重義さんは、関ヶ原の山本(継次郎)家の長男で願済という名前でしたが、明治22年に入籍し、28年に重義と改名しています。
 

   五左衛門−−幸平(才次郎?)−−−−−重義(養子:1867年生)
            妻りせ(岡田善之助次女)   妻きみ                   

 この幸平さんは1839年生まれです。才次郎さんと同じ年です。また、戸籍謄本には、重義さんの養母(幸平さんの妻)は、岡田善之助さんの次女でりせさんと記載されています。ですから、おそらく、幸平さんは岩手の才次郎さんと同一人物だと思われます。では、重義さんは誰と結婚したのでしょうか?戸籍では「きみ」となっています。(重義さんの長女操さんの戸籍に母として書かれています。)
 このきみさんが、岩手の牧岡家の「きえ」さんではないかと思われるのです。重義さんとは同い歳になります。「きえ」は「きみ」の誤りではなかったかと思われます。重義さんが養子になった時が結婚した時だとすると、二人とも23歳ということになり、ほとんどつじつまが合います。

 そして、岩手の牧岡家は長女のけいさんが養子を取って継いだのではないかというのが私の推理です。岩手の牧岡家の古い戸籍が入手できれば、そのあたりが明確になるのですが、この先の仕事は岩手の牧岡さんにお任せしようと思います。

 きみさんは、その後10年もたたない時に、長女操さんを残して他界し、後妻のこまさんにも男の子が生まれなかったため、操さんが牧岡家を継ぎました。

 この関ヶ原の牧岡家に残る記録(位牌)によると、牧岡五左衛門さんは明治3年2月12日にお亡くなりになっています。
 また、幸平さんの子供、初次郎さんは明治元年に、精一さん(享年2歳)は明治6年に、五左衛門さんの妻ことさんは明治11年に亡くなっています。この記録は、才次郎さんに男の子がいなかったことなどとも矛盾していません。

 この2つの牧岡家、今では行き来はありませんが、このような関係でつながっているというのが私の見解です。ただ、関ヶ原がルーツの牧岡さんには、後を継ぐ男のお子さんがいらっしゃらないので、この先、牧岡姓が受け継がれるか心配です。

(2002.10.06)


牧 岡 家 の 謎

 牧岡という姓は、江戸時代にはあったことが確認されています。江戸時代に牧岡姓を名乗っていたことが確認できる、あるいは推測される家は次の家です。

《新潟県柏崎市の牧岡家》
 新潟県柏崎市の上原村(昔の地名)の牧岡家と、下大新田村(昔の地名)の牧岡家。どちらも庄屋などを勤め苗字帯刀を許されました。両家は元は一緒で、1600年代に分かれたようです。元は「牧」姓だったと伝えられています。柏崎市の普光寺に1800年代に建てられた上原村の牧岡家のお墓が残っています。(家紋は丸に木瓜)

《岐阜県垂井町の牧岡家》
 
岐阜県垂井町の牧岡家。この家は竹中半兵衛の竹中家に仕えた家で、武士 でしたので、苗字を名乗ることができました。垂井町の長正寺に1800年代につくられたお墓が残っていますが、その墓石には「渡邊氏改め牧岡姓」と読める文字が彫られています。(家紋は剣片喰)

《広島県呉市の牧岡家》
 
広島県呉市の牧岡家。この家は、武士だったという記録は残っていませんが、
初代は1700年ごろで、尾崎姓。3代目から牧岡姓に変わったそうです。多分、庄屋などを勤め苗字を名乗ることが許された家だと思われます。(家紋は丸に木瓜)

《三重県桑名市の牧岡家》
 
三重県桑名市の牧岡家の初代は文政五年に没しています。先祖は武士だっ たと言い伝えられていますので、そのころから牧岡姓を名乗っていたと思われ ます。(家紋は丸に木瓜)

 江戸時代に「牧岡」姓を名乗った複数の家が、元は牧岡姓ではなかったのです。では何故、牧岡姓を名乗ったのでしょうか?また、明治になって、他の牧岡さんが何故、牧岡姓を名乗ったのでしょうか?ある地域に限定されていれば、なんとなく理解できるのですが、広範囲に分散しています。(もちろん、その中には、まだ分かってはいませんが、江戸時代以前から牧岡姓を名乗っていた牧岡さんが含まれている可能性があります。)

 上記以外に、神奈川県、奈良県、大阪府、広島県、鳥取県、山口県、徳島県、熊本県、鹿児島県をルーツにする牧岡家があります。
 偶然なのでしょうか?それとも、もっと古い歴史の中に何か共通点があるのでしょうか?

 また、偶然といってしまえばそれまでですが、新潟県柏崎市の牧岡家のお墓と、岐阜県垂井町の牧岡家のお墓は、どちらも天保5年に建立されています。

*古いお墓をお持ちの牧岡さん、ぜひ写真をお送りください。

(2002.09.01)


牧 岡 鉄 弥 さ ん

 新潟県がルーツの牧岡さんに「牧岡鉄弥」さんがいます。哲弥さんは幕末の頃、長岡藩武術指南役山田家から、上原の牧岡家へ養子にきました。牧岡家の娘さんと一緒になったのでしょう。

 そのころ、封建社会の身分制度はかなり曖昧になっていました。武士の身分をお金で買うようなことも出来たようです。また、それとは別に、後継ぎのない武士の家では当然養子を取ることも行われていました。

 哲弥さん夫婦も、武士の身分を得るため、すなわち「仕事」を得るために、(たぶん)後継ぎのいない安藤家の家臣の家に養子に行きました。その際、持参金のようなものを持っていったと思われます。「牧岡姓」は捨てても、新しい家で、末代まで武士の身分を保証されることになったわけです。

 しかし、明治維新になり、そのことが無意味になり、鉄弥さん夫婦は、再び牧岡姓に戻りました。そして鉄弥さんは聖公会のクリスチャンになりました。


 私は、NHKの連続テレビ小説「はね駒」(主演:斉藤由貴)のジュリー(沢田研二)が演ずる松浪先生と、この鉄弥さんの生き方がなんとなく似ているような気がしてなりません。明治維新で大きく価値観が変わってしまって、とまどいながら、さらに今までの価値観と全く異なるキリスト教を受け入れた松浪先生。まさに鉄弥さんの生き方と同じだったのではないでしょうか?
 鉄弥さんは聖公会の司祭を勤め1919.6.20に亡くなりました。 

 今、柏崎市の普光寺にある上原の大庄屋を勤めた牧岡家の墓は、(クリスチャンですが)この鉄弥さんの子孫の牧岡さんがお護りしています。

(2002.07.31)

 7月14日の朝の番組(東京では)、「所さんの目がテン!」に牧岡俊樹(元筑波大学教授)さんが出演しました。内容は「さそり」のお話。


牧 野 古 墳(奈良県広陵町)

 奈良県広陵町に牧野(ばくや)古墳があります。この古墳は丘陵部にある大型円墳で、被葬者は、舒明天皇の父、押坂彦人大兄皇子が有力とされています。
この古墳について、インターネットで次の記述を見つけました。

 牧野の墓(亦牧岡ともいう)大皇大后の先和氏、大和の国広瀬郡牧野の墓なり(延喜式) 

 このホームページは、「大和名所記 和州旧跡幽考」(林宗甫)という江戸時代に書かれた「奈良の神社やお寺、名所旧跡を書いた本」を、加藤フサヱさんという方が入力されたものです。また「俗に莫耶が墓……」とも言われていたそうです。

 余談になりますが、この「莫耶」というのは中国の春秋時代、呉の鍛冶屋、干将の妻。干将が刀をつくる際、材料が上手く混ざらなかった。その時、熱く溶けた材料の中へ莫耶が身を投じたらうまく混じり、干将・莫耶、2本の名刀がつくられたという話で、「莫耶」の名は奥の細道や勧進帳などにも出てきます。
 この古墳の場合は「読み方」がにているので、そう呼ばれたのではないでしょうか?

 さて「牧岡」ですが、読み方はわかりません。「ばくおか」と読むのかもしれませんし、「まきおか」かもしれません。奈良県をルーツにする「牧岡さん」が数軒あります。何か関係あるかも知れません。興味のある方は、ぜひ調べてみてください。


 (2002.6.30)


残 念 で す が

 「牧岡さん大研究」で紹介している「牧岡さん」の情報のうち幾つかが「牧岡=まきおか」ではないらしいことが分かりました。

その1.牧岡真守(後藤碩田)さん

 「牧岡真守」さんは、大分公文書館などのホームページで紹介されています。私もお願いして資料を取り寄せてみましたが、そこにのっていた古文書の写真をみた時、何となく「枚岡」と読めるなと感じていました。しかし、子孫の後藤さんからメールもいただいていたので、その時は気にもとめませんでした。しかし、その後、やはり子孫の古嶋さんからメールをいただき、漢字は「枚岡」、読み方は「ひらおか」、由来は大阪の枚岡であるとのことでした。

その2.大菩薩峠の牧岡氏

 幕末史に興味があるAYUMIさんからメールをいただきました。中里介山の大菩薩峠に出てくる「牧岡氏」とは、平岡鳩平という人のことで、史料によって「平岡」「枚岡」「牧岡」と書かれているのだそうです。この人は維新後に北畠治房と姓名を改めたそうです。

 現在では、「ひらおか」という読み方の苗字で「枚岡」と漢字を書く人はいないと思います。そのへんの先入観で、てっきり「牧岡=まきおか」と誤解してしまいました。おわびして訂正します。

その3.柳川藩士牧岡豬

 「曽根崎新地のひろ」さんの大塩の乱資料館のホームページの石崎東国著「大塩平八郎伝」その58の中に、

牧岡 豬   通称進二、柳川藩の儒臣なり

というのがあります。そこで柳川へ行って調べてきましたが、牧岡という藩士は記録にない、「牧園」の誤りではないかということでした。「牧」と「枚」と同じように「岡」と「園」も筆で書くと混同されやすいですよね。
 さて、柳川の思い出は、蒸したうなぎと、船くだり、そして水路のジャンボタニシの卵(どピンクの気持ち悪いやつ)。たとえ間違いでも、そんな縁でもなければ行かない所ですよね。いい機会でした。

(2002.5.31)


春日(文政)騒動を考える

1.時代背景

 春日(文政)騒動は、文政6年(1823)に春日領(新潟県柏崎市)で起きた一揆で、この時の大庄屋が牧岡豊左エ門さんです。
 この時代は、越後の一角で良寛さんが晩年を過ごした時代と一致します。また、その10数年後、天保8年(1837)には、柏崎で、大塩平八郎の乱に影響を受け「救民」の旗をかざして生田万(いくた・よろず=群馬県館林藩士の家に生まれた国学者)らが天領柏崎陣屋へ切り込んだ生田万の乱が起こっています。


 この時代は、封建制度が行き詰まり、幕府は財政に窮するようになった反面、豪農や豪商が栄え、その財力を裏づけにして江戸文化が花開いた時代でもありました。お金さえあれば、豊かで楽しく暮らすことができる時代(贅沢ができる時代)になったわけですが、士農工商の頂点に位置する武士たちは、決して豊かではなかったわけです。

 その結果、武士の社会では袖の下が頻繁に行われるようになり、身分もお金で買えるようになったり、また、領主は領民に重税を課して財政の建て直しを図りましたが、それを悪用して、領主と領民の間に位置する家老や代官や庄屋などが私服を肥やすようなことも起こり、領民の生活はさらに苦しいものになり、それに耐えかねた領民の一揆が各地で起こりました。

 ことによれば、豊左エ門さんの「大庄屋」の地位や、「苗字帯刀」などは、袖の下をつかって手に入れたものと考えることができるかもしれません。
 しかし、この事件で大庄屋を罷免されることになりましたが、これは領主の立場で考えれば「領内で一揆が起こるようでは、大庄屋は任せられない」ということであって、けっして悪事を裁かれたわけではありません。むしろ、この騒動の最終段階では「願い下げ書」に連印して一揆側に協力さえしているのです。

2.裁判

 この時代の裁判は、領地内のもめごとなら、その領地内で解決するのが原則だったようです。この春日騒動のような場合、果たして江戸で正しい判断ができたでしょうか?事実を確認したくても、江戸と春日領を往復するだけでも何日もかかるわけですから、江戸で裁くこと自体に無理があったと思われます。では、安藤領まで役人が出向けばいいという考えもありますが、当時の考え方は、それぞれの地方の代官所や奉行所で審理されることになっていたわけです。(今の地方裁判所でしょうか?)そこで収拾がつかないということは、そこの役人や村役などがきちんと職務を全うしていないという評価になりました。

 また、領地内で処理できた案件でも、裁判といってもきちんとした法律や判例があるわけではありませんから、複雑な案件は両成敗あるいは、双方が納得できるような、今でいえば調停のようなケースが多かったようです。
 その良い例が上原の牧岡家と下大新田の牧岡家の「本家分家争い」です。二つの牧岡家が「本家」を主張しましたが、「家は上原の牧岡家が、人は下大新田の牧岡家が本家」ということで決着を見たようです。
 さらに、今でも鈴木宗男さんのように、政治家が悪いとなると、なかなか証明できることではありません。当時は尚更のことだと思います。この一揆の訴えは、今でいえば、政治(家)が悪い、税が重いというようなことになると思いますが、春日領の管理・運営を行っていた役人や村役は、訴えの相手ですが、警察や裁判所の役割も兼ねていたわけですから、話は複雑です。領地内でまとめることができないで、一揆側の訴えは江戸で裁かれることになりました。ただし、この案件は、「一揆側の訴えを取り上げるが、一揆の良し悪しについても裁く」という2つの面を持っていたようです。その結果、不正が明るみに出たようですが、一揆を起こしたことにたいしての取調べも続けられました。

 しかも、このような一揆は政府にとっては、政権をも揺るがすことになるので厳しく対処したようです。しかし一揆の首謀者を処刑するとさらに一揆が広がる恐れがありますので、処刑しないで「獄死」というようなことが多かったようです。
 新潟県から少し話は飛びますが、私の働いている「羽村市」でも天明のときに一揆が起こりました。この時、村役の中でも、年長者で、もう死んでもいいと覚悟ができている人たちが首謀者に名乗りを上げて、他の人に責任が及ばないようにして一揆を起こしました。その結果、捕らわれた首謀者は、全員が獄中で亡くなっています。決して裁かれて処刑されたわけではありません。(その中の一人、島田傳衛さんが、私の会社の会長の先祖です。
http://www.ibuki-gp.com/hamura.htm参照)

 安藤領(柏崎)から江戸まで出向いて訴えることは大変なことだったと思われます。江戸の奉行所にとっても難しい訴えだったでしょう。確認をとりたいことがあっても江戸と安藤領、簡単にはいきません。きちんと裁きが行えないで月日だけが過ぎていき、獄死したり、宿預かりで死亡した人が続出しました。そこで、地元では一揆側の加害者と、被害者である牧岡家などとが和解し、一揆側は訴状を取り下げてこの一件は収束しましたが、牧岡家は、領主側からすれば、本来なら領内で一揆などが起こらないようにするのが役目だったわけですから、その役目が果たせなかったこと、そして「喧嘩両成敗」で、その職を全て罷免されてしまいました。

3.豊左エ門さんの身分

 この土地に陣屋ができた時の記録では、用人1人、代官1人、御手代2人、足軽4名の構成で、それと地元の地役人で政務が行われていたようです。春日騒動が起きたときも、陣屋の構成は、ほぼそれに近がったと思われます。
 そして、この春日騒動が起こったときには、牧岡家では、豊左エ門さんは勘定方兼大庄屋、息子の勘左エ門さんが大庄屋、孫の彦一郎さんは庄屋、そして弟の周蔵さんは丹越地行所の用使を努め、一族が要職を独占するようなかたちになっていました。

 柏崎の牧岡さんの中に「先祖は武士だった」と言い伝えがある家があります。これは、ご先祖が、この「勘定方」(多分年貢を徴収する役人)や「用使」だったことを言うのではないでしょうか?
 領主側からすれば、少ない人数で領地を管理しなければならないわけですから、地元の庄屋などに武士の仕事の一部を任せられることもあったのかもしれません。事実、この春日騒動の後、この事件の解決に活躍した庄屋高野和七郎さんは代官になっています。

 また、この領地には2人の大庄屋と10人の庄屋がいました。しかしこの時には、2人の大庄屋と1人の庄屋が牧岡家から出ていました。特に2人の大庄屋が牧岡家の者だったということは、私たちから見ても異常です。ですから他の庄屋さんなどから、反感を買ったということも事件の背景の一部にはあったのかもしれません。牧岡家の隆盛が破滅の原因になったわけです。
 
 今、政治の世界でも「ほどほど」を通り越してしまったために、墓穴を掘ってしまった人がいます。そこで「何事も度を過ぎてはいけない」ということを、牧岡家の皆さん、家訓にしては如何でしょうか?

 


Makioka Sisters

 谷崎潤一郎の「細雪」は、蒔岡家四姉妹の物語です。しかも「蒔岡」は、谷崎潤一郎と知り合いだった岐阜出身の「牧岡」さんの了解のもとで主人公の姓を「蒔岡」としたそうです。ですからこの小説は、内容は「牧岡」家のことを書いたものではありませんが、「牧岡」さんの故郷(岐阜)のことも描かれていてたりして、(蛍狩のシーンなど)とても「牧岡」姓とは縁のある作品なのです。

 しかも、英文のタイトルは「Makioka Sisters」です。本の裏表紙には、

The Makioka Sisters is a classic of international literature.

(「マキオカ シスターズ」=「細雪」は、世界的な古典文学のひとつです)と紹介されています。日本では珍しい「まきおか」という姓は、日本文学に興味のある外国人ならほとんどが知っている苗字らしいのです。(ちょっとオーバーですか?)

 インターネットの通販で、この本を買ってみましたので、表紙だけご紹介します。US$で15ドル、2000円まではしませんでした。英語に興味がある牧岡さん、英文で細雪、読んでみませんか?

 

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大 菩 薩 峠

皆さんは、中里介山の「大菩薩峠」をご存知でしょうか?私の会社のある羽村市は、中里介山縁の地で、私も「大菩薩峠」は読んだことはありませんが、名前くらいは知っています。

その「大菩薩峠」の中に「牧岡」が出てきます。この小説の主人公は机龍之介と言って、架空の人物だと思われます。でも「牧岡」が出てくるあたりは、かなり実際に起こった事件を元に書かれているようです。

大菩薩峠 竜神の巻 1

……「中山殿はじめ、松本奎堂、藤本鉄石、吉村寅太郎の領袖は、あれから宿駕籠で鷲家村まで行った。それから伊勢路へ走ると先触れを出しておいて、不意に浪花へ行く策略であったがな」
「彦根の間者が早くもそれを嗅ぎつけて、大軍でおっ取り囲んだ−−−吉村殿と安積五郎殿が一手を指揮して後方の敵に向こうている間に、藤本、松本の両総裁が前面の敵を切り開いて、中山卿を守護してあの場を落ち延びたが、さて危ないことであった」
「そこを落ち延びると、忽ち紀州勢が現れて藤本殿はあわれ斬死じゃ。悼ましいことではあるが、その働きぶりは、さながら鬼神のすがたであった」
「その日の夕暮、またも行手に大敵が現れて、松本総裁は牧岡氏と池氏とに後を托して、中山卿を守りて長州へ落ちよと申し含めて、自身は大敵の中で見事な切死」……

この文は1863年の天誅組の乱のことが書かれていて、中山卿とは中山忠光(明治天皇の母方の叔父)のことです。松本奎堂、藤本鉄石、吉村寅太郎、安積五郎も実在した人物で、なぜほとんどの登場人物がフルネームで出てくる中で「牧岡氏」と姓だけで出てくるのかが疑問です。おそらく牧岡という人物が実在していたのだけれど、フルネームがわからないので牧岡氏としたんだろうと推測されます。(架空の人物なら、適当にフルネームをつければいいわけですから)
 

でも残念ながら、活字では牧岡氏なのですが、読み方は「ひらおか」、平岡鳩平」という人のことだそうです。という内容のメールが幕末史に興味のあるAYUMIさんから届きました。



   牧岡さんのCD 

牧岡さんのCDが発売されています。一つは喜界島の牧岡奈美さんのCD。奄美地方のシマ唄を歌う美奈さんは、数々のコンテストで優勝しています。とくに平成9年から「鹿児島県民謡王座決定戦」で3年連続優勝、16歳の若さで名人位を与えられました。「うふくんでーた」他が発売中です。

あさばな節

稀々 汝きゃば拝でぃ (まれまれ なきゃばうがでぃ)
  神ぬ引き合わせに  稀々 汝きゃば拝でぃ 

拝まん人む 拝でぃ知りゅり (うがまんちゅむ うがでぃ しりゅり)
  命長むぃとれば  拝まん人む 拝でぃ知りゅり 

元気しいもれ また拝も (げんきしいもれ またうがも)
  宵拝だる人んきゃ (よねうがだるちゅんきゃ) 
  元気しいもれ また拝も

歌の意味

神様の引き合わせによってあなたに会うことができました。
  命を長らえていると、今まで知らなかった人と会うことができます。
  今宵お会いできた人よ。いつまでもお元気で、またお会いしましょう。

このように、とても素朴な、でも心豊な唄が16曲収録されています。興味のあ る方は、奄美大島観光ガイドのホームページ(島唄CDコレクション通販)を訪ね て見てください。


もう一つは、東京で活動しているニュースクール・バンド、EVER LAST。ギターは牧岡君です。
     平成13年11月に、「Fragments of the memories of a girl」という1stアルバムが発売になりました。

これからのライブスケジュールなど EVER LASTの情報は

 http://www.howling-bull.co.jp/imperium/ でご覧ください。


平 家 と 牧 岡 姓

新潟県柏崎市の牧岡さんは、もとは「牧」姓で、その牧家には「平家と関係が有り、徳島県から、新潟県柏崎へ移り住んだ」という江戸時代に書かれた記録が残っています。

その徳島県は、四国で唯一昔から牧岡姓があったと思われるところで、祖谷山周辺には平家の落人伝説が残っています。また、鹿児島県にある喜界が島にも平家の落人伝説がありますが、鹿児島県で、もともと牧岡姓があったのも、ここだけのようです。

全国に点在する「牧岡姓」を考えると、平家あるいはその家臣の一族が、源氏との戦いに敗れ、各地に散りじりになったと考えることもできるのではないでしょうか。そして、長い間、平家の落人であることを隠していましたが、江戸時代になって、平家の時代に使っていた「牧岡」という姓だけを復活させたというのはどうでしょうか?広島県呉市の牧岡さんも、江戸時代に尾崎姓から牧岡姓にかえています。真相はまだはっきりしませんが、こんなふうに考えてみると、歴史に興味がわきませんか?

平氏と源氏

ちょっと本論からそれますが、私達は平氏は源氏によって滅ぼされ、その歴史に幕を下ろしたと思いがちですが、そうではありません。

源平以後、武士の社会は、源氏と平氏の流れを汲む者が、交替で政権を手にしています。(源平交替思想といいます)
   まず平氏が、源頼朝の政権にかわり、その後、源氏に代わって政権を手にした北条氏は平家の支流でした。
    これに代わった室町幕府は源氏の足利家、そして足利家に取って代わった織田信長は、始めは藤原を姓としていましたが、天下の実権を奪うと平氏を称しました。 出自がはっきりしない豊臣秀吉は、源姓を称し、将軍に就任することを策しましたが、うまくいかず、徳川家康は、吉良家から源氏系図を譲り受け、その中にある得川(とくがわ)を自らの家名、徳川にかこつけて源氏を称し、将軍になったそうです。

(学研:歴史群像シリーズ11:徳川家康より引用)


シ ー サ イ ド ・ カ フ ェ

    シーサイド・カフェ(海好き大集合)というホームページに、中華人民共和国の大連海事大学へ留学している牧岡恵さんのキャンパス・レポートが載っています。お時間のある方は、ちょと覗いてみて下さい。

 

 

   
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