本文へ戻る 牧岡さん大研究/牧岡姓の由来
安藤領に文政騒動おこる

 

藤出雲守は7千石の旗本で、越後領は刈羽郡春日、平井、田塚、長崎、長崎新田、山本、上原、下原、橋場、正明寺の十か村で5千石を領した。

屋は春日にあり、江戸の用人(家老)の命を受けて代官が領政を統べ、村役人は2人の大庄屋の下に10人の庄屋がいて村政をとっていた。

塚村の大矢和左衛門、平井村の西巻啓八が大庄屋であった時は領民はよくまとまっていた。しかるに上原村の牧岡一族が用人小泉文左衛門に結託し、領内の実権を握るに及んで領内は乱れに乱れた。

岡豊左衛門は大矢氏の退役後西巻氏と共に大庄屋兼帯勘定人となり、その倅勘左衛門も大庄屋、勘左衛門の弟周蔵は江戸屋敷の用使として用人小泉文左衛門の腹臣となり、勘左衛門の子彦一郎は上原村の庄屋となり、一族みな小泉の私党として私利私欲を肥やしたのである。又、その不正に与したのが下原村八百右衛門、平井村西巻啓八であった。

泉の主な不正をあげると、調達金100両の着服、無尽講百両の踏み倒し、4千両の過超貢租と反対者の処罰、390両の借金肩代り、700両の調達金の課徴、近年7回にわたる御用金の賦課等数えきれぬほどであった。このため領民は田畑を質に入れるなど窮乏のどん底に追い込まれたのに対し、小泉文左衛門は深川の女郎を身請けし遊興にふけるありさまだった。

 

常、一揆は領主対農民の対立を基礎に代表越訴型、惣百姓一揆型を現出するが、安藤領の場合は、百姓の代表である大庄屋が領主側の勘定人として年貢の課徴にあたり、搾取の先兵となった点に異常な特色があり、それだけ深刻であった。

政6年4月28日、領内の百姓は春日村の兵吉を首謀者として決起し、牧岡の手兵である上原村の組頭伴右衛門方へ乱入したが、陣屋に知れて兵吉は逮捕され牢屋につながれた。

かし、百姓の激しい怒りに代官も兵吉の入牢を続けることが出来ず出獄を許したが、百姓等は28ヶ条の訴状をしたため江戸寺社奉行へ提出することにした。しかし、庄屋等は後難を恐れてその押印を肯んじなかったので提出することが出来なかった。このため、6月16日再び一揆がおこり、法螺貝を吹き鳴らし陣屋および牧岡一党を襲った。春日陣屋では直ちに隣藩柏崎陣屋に救援を依頼し、柏崎陣屋から岩崎大助等が出陣し、悪田小路の石地蔵付近で空砲を発して一揆を取り鎮めた。そして首謀者を諭し、28ヶ条の訴状を江戸寺社奉行へ提出させた。かくて、家ぐるみ村ぐるみの闘争が開始されたのである。

年8月3日、寺社奉行太田摂津守は首謀者18名、外に付添人として庄屋又は組頭1名の出府を命じてきた。百姓側では他人数の出府は貧窮の上に更に旅費の工面で困窮するので、田塚村庄屋周兵衛、平井村庄屋和七郎を惣代として善処方を上申したが聞き入れず、しかも9月11日、出雲崎代官所の捕方80人を派遣して首謀者18人を逮捕し、丸籠に乗せ江戸に護送した。この際、首謀者兵吉ら3人は武州大峰山聖護院に逃亡して難を避けた。

行所での調べは一向に進まず、2ヶ月は矢のごとく過ぎ去った。この間、牢屋に悪疫が流行し、入牢組18人中春日村宇右衛門、橋場村善右衛門、下原村紋右衛門、山本村市右衛門、長崎村義左衛門、正明寺村幸左衛門らの6人が死亡した。又、差添御指人および差添人10人中、橋場村庄屋嘉左衛門、長崎新田庄屋定六、橋場村組頭政右衛門、下原村平左衛門、田塚村幸右衛門、山本村勘左衛門の6人も死亡した。彼らは宿預りであったが、手錠のため、旅の疲れや江戸の寒気を癒す暇も無く発病したのである。

に翌7年の7月から10月にかけて3名が病死した。このような悲報に接し、安藤領10ヶ村民は柱たるべき父や夫や子を勾留され、あるいは失ってなす術もなく悲嘆にくれていた。この時、平井村の庄屋高野和七郎が再度出府し、11月1日訴状の引き下げ方を老中青山下野守に提出した。理非曲直を知りつつ百姓の弾圧を決めていた寺社奉行は渡りに舟と原訴状を却下し、入牢者一同を追放した。又、領主は、陣屋の代官野田斧吉、牧岡一族を罷免し、領政を改めた。結果は百姓側の完全な敗北に終わったが、安藤領政の反省を促した点に意義がある。平井村の高野和七郎は調停の功労者として代官職に登用され、家運隆昌の緒をつかんだ。

小林長右衛門文書「御地頭御慈悲願ひ」、「御願下一件」他

柏崎編年史第7章桑名藩政の展開(解体期の幕藩社会)

この資料は新潟県の牧岡敏さんからお送りいただきました。


江戸時代の庶民の支配

江戸時代には、士農工商という身分制度があったわけですが、「農」の支配は次のような形で行われました。

領主−−−郡代・代官−−−村方三役(名主・組頭・百姓代)−

−−百姓

*名主のことを庄屋という場合もあります。

参考資料:歴史群像シリーズ11、徳川家康(学研)

   
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